PAC3

 昨日NHKのニュースで、4月10日に打ち上げが予定されている北朝鮮の弾道ミサイル発射に伴なう不測の事態(一体何のことか?)に備えて、自衛隊の地対空誘導弾パトリオット(PAC3)が沖縄県内に初めて配備されたことを物々しく伝えていた。

 不測の事態に備える為にPAC3を沖縄に配備する必要があるというのは、政府のロジックであり、このロジックが正しいかどうかを検証する責任がまともなマスメディアにはあると思うが、無論国営放送NHKにはそんな気はなく、政府の言っていることをただたれ流すだけである。たまたま同じ日に一日遅れの「琉球新報」を読んでいたら、「ミサイル迎撃は不可能」という見出しの記事が載っていた。それは元防衛大教授で外交官でもあった孫崎享氏へのインタビュー記事である。少し長いが知らない人も多いと思うので全文引用する。
 
 
  ――北朝鮮の長距離弾道ミサイルの発射実験とみられる「人工衛
 星」打ち上げの意図は。

  ミサイルや原子力技術開発を他国から力で押さえ付けられることに
 対する反発がある。米国などの圧力に対してできるだけ抑止力のカー
 ドを持ちたいという意図があるはずだ。国内の主導権争いで優位性を
 保ちたい軍部が金正恩に対し発射を迫っている可能性もある。

  ――過去の「人工衛星」の打ち上げでは、いずれも東側の経路を通
 って日本海や太平洋上に落下した。今回なぜ南側の経路なのか。

  北側はロシアの上空を通るのでできない。東側に発射して日本列島
 の上陸を通過すれば過去のように無用に日本を刺激する。北朝鮮なり
 に気を遣って狭い間隙を突いた経路を選んだのではないか。

  ――防衛省は「国民の生命と財産を守る」とPAC3の配備を説明して
 いる。

  ミサイル防衛システムは軍事拠点を守るもので、民間地を防護する
 には不完全で全く機能しない。こちら側の攻撃拠点を防護するために
 同じ軌道で飛んでくる敵のミサイルを正面から迎撃することは可能か
 もしれないが、予測不能な軌道で落下してくるミサイルを迎撃するの
 は物理的に不可能だ。今回はフィリピンの東部の海上が落下予測地点
 で、南西地域のはるか上空を飛ぶのでPAC3で迎撃する必要はない。防
 衛省が『不測の事態』と言っている日本領域内への落下自体が『予測
 外』の軌道。軌道予測の外れた、秒速数キロから10キロで落下してく
 るミサイルを迎撃できるはずがない。

  ――PAC3のほか、陸上自衛隊も救援部隊として配備される。

  米国は財政難で軍事費の削減を迫られる中、中国との経済的な関係
 を重視し協調路線を選択していく。対中国ではこれまでの前方展開か
 ら後方配備に切り替え、抑止と防衛の負担を同盟国である日本側に肩
 代わりさせる『オフショア・バランシング』の戦略を進めていくだろ
 う。今回、ミサイルの軌道がたまたま南西地域上空を通るが、日本政
 府は『これ幸い』とばかりに米国の意向に沿ってPAC3配備を機に南西
 地域の自衛隊強化を図る方針だろう。

 長い間翻訳が待たれていたユダヤ系ロシア人の作家ワシリー グロスマン(1905~1964)の「人生と運命」全3巻が、この3月に「みすず書房」からようやく出揃った。全部で1500ページ近くになる大著で、1月に第1巻が出版されて以来、私は次巻の出るのが待ち遠しくなるような気持ちで読んだ。

 フランスのユダヤ人哲学者エマニュエル レビナスが、もう随分前に今世紀(20世紀)最高の小説と言っていたので、この本を私は以前から強く読みたいと思っていた。しかし英語や仏語では勿論、長い間発禁であったロシアでもとっくに出版されているのに、日本語訳は不思議なことにこれまでなかった。訳者の斉藤紘一氏もそれが不思議だと後書きで書いていたが、読んでみて成る程と納得したのは、この本のテーマの深さが戦後の軽薄な日本社会には殆ど受け入れ不能で、出版事業としては恐らく成立しないだろうと思われたからである。敗戦から67年、2012年になってようやくこのようなテーマは、日本社会にも咀嚼可能になったのだろうか。

 この本のテーマは、1942年から43年にかけて旧ソヴィエトのスターリングラードで行なわれた、ドイツ軍とソ連赤軍との歴史的な攻防戦を背景として描かれる様々な人間模様である。以前ブログに書いたジョナサン リテルの「慈しみの女神たち」も、同様のテーマをナチ側の眼で捉えたものだが、私の印象ではリテルの小説は、グロスマンの完全なパクリである。あれは最後になって壮大な失敗作であることを露呈するが、「人生と運命」を読むと、あの時代にあの地域で起きた様々な出来事は、これ以外のどのような書き方で書いても、失敗に終らざるをえないと思う。

 その書き方とは、苛酷な運命に出会う様々な人々 ――それは実際に戦争を戦う赤軍やナチの将兵ばかりではない―― のギリギリの「生」や「死」を、あくまで現実に生きている人間の人間性の問題として捉えようとするグロスマンの強い姿勢が作るものである。例えばユダヤ系ロシア人で、赤軍の軍医であるソフィヤ レヴィントンという女医が作中に登場するが、彼女は他のロシア将兵と共にスターリングラード近郊でドイツ軍と遭遇し捕虜となってしまう。しかしナチのユダヤ人絶滅政策の為、彼女だけが他のロシア人捕虜とは別にトレブリンカの絶滅収容所に送られ、ガス殺されることになる。同じ運命にあった多数のウクライナに住むユダヤ系ロシア人と共に、貨物車で家畜のようにトレブリンカに送致される間に、ソフィヤはダヴィドという7才の少年を知る。彼はその夏たまたまウクライナの祖母の家に預けられていた為、ドイツ軍のユダヤ人狩りにあって、一人でこの貨物車に乗る羽目となったのである。ソフィヤは独身ではあったがこの少年に母親の感情を持ち、何くれとなく彼の世話をする。トレブリンカに到着後、彼女は外科医として選別され生き残るチャンスがあったにもかかわらず、ダヴィドの為に一緒にガス殺されることを選ぶ。圧巻はガス室内の、つまり彼女がダヴィドと共に死ぬ直前の次の描写である。

 
  「燃えるような熱い腕がずっとダヴィドを強く抱きしめていた。自
 分の目の前が暗くなり、心臓の鼓動が大きくうつろになり、頭の中が
 ボーッとしてはっきりしなくなったのを、少年は理解できなかった。
 彼は殺された。そして、存在することをやめた。

  ソフィヤ・オーシポヴナ・レヴィントンは、彼女の腕の中で少年の
 体がくずおれるのを感じた。彼女はふたたび彼からとり残されてしま
 った。有毒ガスで空気の汚染された地下坑道では、ガス検知器 ――小
 鳥とネズミ―― はすぐに死ぬ。体が小さいからである。それで小さな
 小鳥のような体をした少年は、彼女より早く逝ったのである。

  《私は母親になったわ》ソフィヤはふっと思った。
 それがソフィヤが最後に考えたことだった。

  だが、彼女の心臓にはまだ命があった。それは締めつけられ、痛
 み、あなた方を、生きている者たちと死んだ者たちを、憐れんでい
 た。吐き気がこみ上げてきた。ソフィヤ・オーシポヴナ・レヴイント
 ンは人形となったダヴィドを抱きしめた。彼女は死んだ。死んで、人
 形になった。」(第2巻 P370~P371)
 

 グロスマンは、人間は死ぬ時すら、人間として以外は死にようがないと別のところで書いている。誰も知ることのない無力な人間の善意、しかし人間が人間であることの意味は、この無力な善意の内にしかない。グロスマンは、多くの記憶されることのないこの無力な善意を、小説という形式を使って発掘し、私達に記憶させようとしているのだ。これは間違いなくドストエフスキイに直接つながる、最も偉大なロシア文学の伝統である。

チョムスキー

 以前ブログにも書いた将棋のパソコンソフト「ボンクラーズ」に続き、今度は囲碁のパソコンソフト「ゼン」が、過去に数々のタイトルを取った現役棋士武宮正樹9段を打ち負かした。もっともこの対戦は、「ゼン」が武宮9段から一回目は5子、直後に行なわれた再戦では4子の置き石のハンディをもらって行なわれたものである。しかしこのハンディで両対局とも「ゼン」は武宮9段に圧勝したから、恐らくトップアマと同レベルのアマ6段以上の棋力があると考えられる。

 将棋にせよ囲棋にせよ、一つのルールの下で最適な駒や石の打ち方を決めるアルゴリズム(計算手順)の能力を、二人のプレイヤーが競い合うゲームである。このアルゴリズムの能力が人間に独自のものであることは間違いない。だがこの能力は、パソコン等を使えば簡単に真似できるばかりでなく、人間以上に拡張することも可能なのである。将棋より手数が多くアルゴリズムも複雑になる囲碁も、近い内にパソコンがハンディ無しでどんなプロ棋士にも打ち勝つようになるだろう。

 ところでアメリカの言語学者チョムスキーの言語理論は、ある特定の言語を自然に獲得する為の普遍的なプログラム(普遍文法と呼ばれる)が、人間の脳内には予め組み込まれているという仮説に基づく。その仮説は、ある時期に幼児が親などから得る特定言語の聴覚刺激(もしその特定言語が手話であれば視覚刺激)等が、パラメータ及びスイッチとなってこのプログラムを起動させ、次第にこのプログラム自体が、その特定言語の個別的な文法に自動的に変換して行くというものだ。従ってチョムスキーにとって言語学とは、そのような変換を可能にする普遍文法の原理(アルゴリズム)を解明する自然科学に他ならない。この見立てが正しければ、人間の脳はどんなに複雑であるにせよ、機械もしくはコンピューターと本質的には同じ原理のシステムである。言語や心という人間性の根幹を成すとみなされるものも、外部からの情報つまり刺激が入力となって、機械的にこのシステムが言葉や心という出力に変換しているだけということになる。

 チョムスキーはあるインタビューで、言語学を研究する究極の目的は人間性の根源を知ることだと答えている。つまり彼は、人間の言語や心が殆ど外部刺激に対する脳の機械的な反応にすぎないと認めた上で、なお機械にはどうしてもできない反応が人間には可能であるのか、それを知らなくてはならないと言っているのだ。これは200年以上前にカントの立てた人間の自由に関する問い、すなわち究極的に倫理は人間に可能であるかという問いと全く同じ性質のものである。カントもチョムスキーもそれは可能だと言っている訳だが、同時に私達が人間性と称しているものの大部分は、人間の自由とは何の関係もない機械の反応にすぎないことを忘れない方が良いだろう。「南京大虐殺はなかった」という河村名古屋市長の言葉も、それに類したものだと私は思っている。

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プロフィール

矢作建設工業株式会社
取締役社長・山田文男

1953年 愛知県豊田市生
1976年 慶應義塾大学経済学部卒
1978年 米国ミネソタ大学経営学部卒
1979年 株式会社協和銀行入行
1984年 矢作建設工業株式会社入社
1994年 同社 取締役社長就任

  東山・見付九条の会 会員
  (社)中部経済連合会 常任理事
  中部経済同友会 常任幹事
  名古屋商工会議所 議員
  愛知県経営者協会 会員

 

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